ヒトリカイギ。

整理整頓。

自分と向き合う術。

先日のブログでも書いたが、私はここ2年半ほど「アナトミック骨盤ヨガ®」というヨガをやっている。

ヨガというと、「リラックス」とか、「ストレッチ」とか、「ゆったり」とか、「ファッション性が高いスポーツ」とか、「瞑想」とか、「片岡鶴太郎さんのようにお腹ベコーって凹むやつ」とかいうイメージがあるようだけど(少なくとも、私が仲良くしているジム友さんの「ヨガ」に対するイメージはそういうものだそうだ)、私のヨガは真逆で、「これ、普通に筋トレ以外の何でもないでしょ!?!?」と突っ込まれて当然の、「しかもコレ結構マジでキツいヤツじゃん!!!」とか言われて当然の、「コレ、ヨガなの???違うでしょ!!!」と言われて当然の、運動強度の高~いヨガである。

いいのだ、考案した先生が「このヨガは筋トレ」と言い切っている、それに素直に乗っかっているだけだ。

 (そうは言っても、そんなヨガも、強度はいくらでも変えられるので、緩くしようと思えばいくらでもできるし、手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。)

 

だけど、コレも前回の記事に書いたけれど、私は「資格取ったけど出来ない」人だったので、「出来ないならやるしかない」ということで、キツめキツめに練習していたら、その先にある「出来た!!」や、頑張った後の爽快感、頑張った後のコメの美味しさ、とにかくいろんなものに魅了され、わざわざ自分から強度を上げて攻めているのだ。

 

唯一の副作用としては、練習が終わったころには、髪はぼさぼさ(←私はショートカットだからなかなかヒドいよ)、眉毛は汗で消えてなくなっている(←私はほとんど全部描いてるからな)、目の上を羽ばたいていたはずのマスカラは目の下に美しい着地をみせ(←だったら最初から羽ばたかせなければいいとさえ思うがそこは女子なので羽ばたかせたい)、というか、お化粧全落ち、というか、「全体的に風呂上り同然みたいになります。」、その程度のことだ。

 

あ、翌日必ず筋肉痛が来るというおまけもついてくる。

 

 いずれにしてもその程度のことだ。

 

 

ヨガには、ヨガ哲学とか、瞑想とか、いろいろある。らしい。確かにある。

それに関する書籍も沢山ある。

「ハタヨガの真髄」という本は、ヨガを愛する人なら持ってて当然のバイブルらしい。

ヨガの資格にもいろいろあって1年とかかけて取りにいく本格的なものだと、まずはこの哲学的なことなどを学ぶそうだ。

でも、私はそこから入らなかったし、ヨガを愛したいからヨガを始めた当初に「ハタヨガの真髄」は買うには買ったが、いまだに読んでいない、が、少なくとも自分のヨガは愛していると思う、多分。

 

 

ヨガの使い方、ヨガとの向き合い方は、人それぞれだ。

私は、哲学などは後でもいいと思っている。

というか、それどころではなかったのだ、「資格持ってて出来ないとか、カッコ悪すぎる」という思いだけだった。

ただ、ヨガの練習をひたすら繰り返す中で、気が付いたら哲学的なことに気がづいたり、瞑想らしきことができるようになっている自分に気が付いたからそれでいい。

そういう順序でも、全然構わないと思う。

つまり最終的には、「ヨガを通して、ヨガをやることで、自分自身とどれだけ向き合えるか」ということに落ちるのだということは理解した、それでいい。

 

 

私は、ヨガを通して、「私たちの日々は常に、自分自身との向き合うことの連続なのだ」と気が付いた。

私の生活の柱は「食べる・動く(働く・トレーニングする)・寝る」だが、そのどれもが「自分とどれだけ向き合えるか」ということなのだ。

 

 

私の場合、具体的にはこうだ。

 

ヨガの資格を半ば興味本位で取ったが、ヤバい、あたし全然できないんだけど。

 ↓

 資格だけ取って(肩書だけ立派で)、実際やって見せられないとか、恥ずかしい。

・・・に始まった。

 

 

練習する。

 ↓

気持ち良くお腹が空く。

 ↓
ヤバい、いつものコメが美味すぎる!!!

 ↓

こんなに普通の食事がめっちゃ美味しく食べられるなら、今日も頑張ろ!
 ↓

練習頑張る。

 ↓

お腹空く。

 ↓

こんなに頑張ってんだから、無駄にならないようにバランス考えて食べよう。

次の練習も頑張れるように、バランス考えて食べよう。

 ↓

あれ?結構食べてるけど太らないね。
むしろ身体のライン締まって来た。

 ↓

ちゃんと身体休めて、次のトレーニングのためにエネルギー溜めなきゃ。

早く寝よ。

 ↓

ちゃんと食べる。

 ↓

トレーニング頑張る。

 ↓

ちゃんと食べて寝る。

  

 

あるいは、

 

 

練習したい。

 ↓

そのためには、スケジュール管理が必要。

 ↓

効率よくやろうとする。

 ↓

仕事が捗る。

用事も捗る。

 ↓

サクサクな自分になる。

 

 

 

あるいは、

 

 

練習する。

 ↓

出来ない自分がいて、でもそれも自分だと受け入れる。

 ↓

出来ない日と出来る日がある、日によって身体は微妙にコンディションが違う、それも自分だと受け入れる。

 ↓

自分以外の他の人もそうなはずだと理解できる。

 ↓

自分とは違う、人の考えや行動などを受けいれられるようになる。

  ↓

かと言って、「甘える」と「受け入れる」は違うからちゃんとしよう、ということも理解する。

 ↓

自分自身と相手との間に折り合いがつけられる。

 

 

 

あるいは、

 

 

練習する。

 ↓

見た目一瞬の綺麗に捉われるより、一生懸命やって髪ボサボサで眉毛消えてマスカラ落ちてカッコ悪いけど出来なかったこと一つ一つクリアしていく自分が好きだと思える。

 

 

練習する。

 ↓

集中度合いが上がる。

何も考えず、アーサナ(ポーズ)に集中できる自分がいる。←多分コレが「瞑想」というやつ。

 

 

 この中で私は、

「お腹空いたな、お菓子にする?バランス考えたご飯にする?」

「めっちゃお菓子いっぱい食べたいなー、今日は食べよう、明日からまたちゃんとご飯食べよう。」

「予定が二つ重なりそうだな、どう処理する?片方を取る?両方こなす?」

「寝ようと思ったら観たいテレビ番組ある。今夜更かしして観る?録画して時間ある時に観る?」

「今日は夜更かししよう。でも明日は早く寝よう。」 

「ヨガやりたいけど仕事ある、それは仕方がないからヨガの予定一日ずらそう。」

「家族の予定あるけどヨガもしたい、家族と相談しよう。」

「今日、いつもよりヨガがしんどいな、疲れてるかな。」

「今日調子悪いな、何かいつもと違う事したかな。」

「今日調子がいいな、なんでだろ。」

・・・。

 ということを繰り返して来た。

 

 

 

 

最初は、ヨガが好きとか嫌いとか、練習が好きとか嫌いとかではなかった。

「出来ないならやるしかない」それだけだったと思う。

だから、私の場合、すべての起点は「練習する」ということだったのだと思う。

 

そんな練習はいつの間にか習慣となり、日常となり、その中で楽しさや悔しさや喜びを沢山味わって、今では、「ヨガは自分自身と向き合う大切なツール」という位置づけになった。

 

それは、

「ヨガを通して自分自身と向き合うようになったから」

「ヨガマットの上でやっていることやろうとしていることを、ヨガマット以外の場所でも出来るようになったから」

というのが大きな理由だと思う。

 

 

 

最初に書いたが、今でも私は自分にキツめなヨガを求めるので、いつだってキツい。

むしろ今の方がキツい。

ただ、これは私が私のために、誰かに指示されたわけじゃない好きでやっていることだから、嫌だと思えば辞めればいい、面倒ならやらなければいい、もう1カウント頑張るかどうかも自分次第、辞めたからって誰にも迷惑にはならないし、誰にも「もっと頑張れるだろ!!」とも言われない。

マットから降りたければ、いつだって自分の好きなタイミングで、自分の感情に任せてサッサと降りればいい。

だけど、同時に、降りずに頑張ることもできる。

畳1枚もないマットの上で、自分自身の感情と戦うしかない。

もう1カウント先の自分に会いに行くの?行かないの?
どっちにするかは、自分次第。

ひたすら自問自答の繰り返しなのだ。

 

  そして、ある日気が付いた。

マットの外で起こること、つまりヨガをしている以外の時間、当たり前に過ぎていく日常の目の前の出来事一つ一つ、どんな時も、自分自身と、向き合い、折り合いをつけている。

一日はそれの連続で、それの連続が「日々」であり、そんな自分が、自分以外の人との向き合い方を変え、人との関係性を築いていく。

 

 

 

私の場合はそれが「ヨガ」だったが、何でもいいと思う。

他の運動方法でもいいし、綺麗になりたい!と思って始めた食事からでも、何でこんなに人と上手くいかないんだろうと悩む気持ちからでも、誰かと話した一言からでも、何でもいいと思う。

 

 

とっかかりなんて、きっかけなんて何でもいい。

順序なんてどっちでもいい。

大事なことは、私たちの日々には、いくらでも自身と向き合うきっかけが転がっていて、それを拾うか拾わないかを自分自身で決めているということ。

 

向き合おうとしなければ、手の平出して口先で「ちょうだい」と言っていたって、絶対に拾えない。

向き合おうとすれば、立ち止まってでも道を戻ってでも、拾い上げられる。

 

 

私たちは、自分自身と向き合う術を持っていて、それを使うか使わないかは自分で選んでいる。

日々はそういうことの連続で、そういう日々こそが人生そのものなのだということ。